デストピア経典~曼荼羅畑でつかまえて(三代目)

B級カルトな特殊映画、ホラーにアニメに格闘技、酒にメタルにフィギュアに銃。日頃世間ではあまり顧みられる事のないあれやこれやを過剰なる偏愛を以てご紹介いたします。

K国映画ラスト・レビュー。 ビー・デビル

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人口僅か9人。絶海の孤島で虐待と蹂躙に耐え続けてきた女がブチ切れて住民を皆殺しにする…。

と書けば韓国版「丑三つの村」になりますが、視点の置き所を変えた為に実に据わりの悪い映画になってしまいました。

ビー・デビル」(2010年/チャン・チョルス監督)

まんま訳すと「悪魔になれ!」ですが、英題は「BEDEVILLED」。望んだわけでもないのに悪魔にされてしまった、というニュアンスになります。

島で家族・島民から虐げられてきたキム・ボンナム(ソ・ヨンヒ)。

丑三つの村」で言えば犬丸継男(古尾谷雅人)、津山30人殺しで言えば都井睦夫に当たるわけですが、彼女が主人公かと言うと違うのですよ、これが。

この島出身で子供の頃、ボンナムと親友だったヘウォン(チ・ソンウォン)が事実上の主人公。

子供頃も傍観者(親友の受難を見て見ぬフリ)、ソウルに出てからも傍観者(暴力犯罪を目撃しても証言せず)、そして島に帰ってきてからも傍観者(親友最大の危機に手を貸さず)。

ヘウォンが、ボンナム事件によって傍観者から一歩抜け出すというのが、話としてのオチになるのですが、んー、そりゃちいっと間違ってないかい?

全編に渡り出ずっぱりなのはボンナムで、観ているこちらは完全にボンナムに感情移入しています。

自らの意思と力で魂の自由を勝ち取ったボンナムを、終盤まるでジェイソンかマイケル・マイヤーズのようなホラーアイコンとして描写するやり方は正直納得がいきません。

対するヘウォンはスゲー嫌な(性格悪い)女として登場。中盤は寝ているだけで一切活躍せず。心情的に寄り添うエピがひとつもないまま、エンディングへ。

監督は“傍観者”という存在を本作のテーマと位置づけているようです。

なので、明らかに不要と思われる冒頭のソウル、蛇足としか思えない終盤の内地およびエピローグとしてのソウルの描写も、監督にとっては必要不可欠(というよりむしろ、ここから全体を発想したのではないでしょうか)。

でもよう、あれだけの苦しみと不幸の輪廻をカマ1本で断ち切った田舎女の情念と、あたしちょっと性格変わりました、な都会女のご都合を同質量のエネルギーと看做しちまっちゃあ、そりゃボンナムが不憫過ぎないかい?

監督さんは本作が処女作。インタビュー映像を見る限り、折り目正しい(若くは無いが印象として)好青年。

どうも“傍観者の立場を貫いていた女が、ある事件を契機に考えを改める”というプロットを机上の理屈として組み立てた結果、このようなバランスの崩し方をしてしまったのではないかと思います。

傍観者なら島の中に“権力者である叔母様に無自覚妄信的に追随する住民”がいるので、敢えてヘウォンのような立場の人間を入れなくとも、お話は十分成立します。

ヘウォンもまた傍観者として断罪され、ひとりボンナムだけが島を出て行く、という展開であったなら、魂の1本になったかもしれません。

この点に関しては(珍しく)山口雄大監督(オーディオ・コメンタリー/バタリアンズ)と意見が一致しました。

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さて、日本とK国の関係は日増しに険悪さを増して最早軌道修正叶わぬ所まで来てしまいました。と言っても一方的に喧嘩を売られているだけでこっちはひたすら耐えているだけなのですが…(いやしかし日本人の忍耐強さと言うか人の良さにはホント感心するわ)。

この期に及んで、魂売り渡したテレビ屋と広告屋が仕組んだ虚像に踊らされ続けている奴らも大概ですが、国を挙げて日本を面罵している奴らを持ち上げるのもアレなので、本作を以ってK国映画レビューは暫し封印させて頂こうと思います。

どちらにも一線を越える度胸は無いでしょうし、売国政党が打開策を提示できるとも思えないので、膠着状態が続くんでしようねぇ…。