デストピア経典~曼荼羅畑でつかまえて(三代目)

B級カルトな特殊映画、ホラーにアニメに格闘技、酒にメタルにフィギュアに銃。日頃世間ではあまり顧みられる事のないあれやこれやを過剰なる偏愛を以てご紹介いたします。

ありがとう。 ウルトラマン最終回「さらばウルトラマン」

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『キャップ、あれですよ、あの紅い球ですよ。僕は竜ヶ森で衝突して…衝突して今までどうしていたんだろう

シリーズ最大の問題発言だと思うのですが…。

ウルトラマン/最終回・さらばウルトラマン[英題:FAREWELL, ULTRAMAN!]」(1967年4月9日放送/円谷一監督・金城哲夫脚本)

「怪獣墓場」レビュー時に、ウルトラマン=ハヤタではない、という事を書きましたが、最終回で実はハヤタという人格すら存在しなかった事が明らかになりました。

『私が帰ったらひとりの地球人が死んでしまうのだ』


つまり、ウルトラマンはハヤタを殺さないための保険、生命維持装置のようなものだったわけです。

では、劇中のハヤタの言動は何だったのか。

ウルトラマンがハヤタという着ぐるみを着て腹話術をしていた、という事になります。

考えてみれば、ハヤタとウルトラマンが会話をしたのは初回初対面時のみ。

もし、ハヤタという人格が存在していたのなら、他にも二人の会話、いや相克があって然るべきです。

一心同体になったとは言え、宇宙人の考える正義と地球人、いや日本人の考える正義が同じものとは思えません。

しかし、宇宙人の守る正義とは日本の平和であり、それはとりもなおさず国体の護持を意味します。金城哲夫のコスモポリタニズムが生んだ大いなる矛盾。

ウルトラマンの人格と正義。「故郷は地球」「怪獣墓場」という佐々木守の逆襲。返歌(自問自答?)としての「まぼろしの雪山」「禁じられた言葉」。

思想的矛盾の累積赤字で自己破産したのが最終回の「実はハヤタは存在しませんでした」という設定だったのではないでしょうか。

別に矛盾を突いて愉しんでいる訳ではありません。「たかが子供番組のために作り手はこんなにも悩み苦しみ葛藤してくれたんだ」という事に驚き感謝しているのです。

ウルトラマンをつくった男たち」(1989年3月21日放送/実相寺昭雄原作・佐々木守脚本)の中で実相寺(三上博史)と高野宏一(大地康夫)が(怪獣墓場の演出を巡って)大激突しているシーンを観た時も(どこまでが真実かは分かりませんが)、

「おお、き、君たちは俺らのためにそんなに真剣に取り組んでくれていたのか!」

と半泣き状態でした。

ドラマは計算よりもまず情熱ですよ(聞いてるか、電通とテレビ局のアホプロデューサー)。