キャッチコピーになぞらえるなら“映画は美しさに満ちている。でも何かが足りない”。
ダブリンの片田舎で隠遁生活を送る往年のロックスター、シャイアン(ショーン・ペン)。
ボサボサに広がった長い髪、でかい鉤鼻、現役の頃と変わらぬ化粧と衣装。
深く刻まれた皺とつぶやくような話し方。カートを引きながら歩く姿は老婆のようにも見えます。
ある日届いた一通の手紙。それは30年前から疎遠になっていた父危篤の知らせ。
不本意ながらシャイアンは故郷、ニューヨークへ。それは癒しと解放のオデッセイ。
「きっとここが帰る場所」
(2011年/パオロ・ソレンティーノ監督)
ショーン・ペンの役作りが凄まじい限り。
モデルにしたのはザ・キュアーのロバート・スミス(写真2枚目)のようですが、ぱっと見の印象はエドワード・シザーハンズ(写真3枚目)。
外界からやって来た稀人という意味では、シザーハンズ(あるいは「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」のブラザー)のようでもあるので案外間違ってはいないのかもしれません。
結局、シャイアンは父の臨終に立ち会えず。しかし、遺品から父がホロコーストの生き残りであり、生涯を賭けてひとりのSS残党を追っていたことを知らされます。
ここからお話は意外な方向に面舵一杯。父の遺志を継ぐシャイアンのアメリカ大陸横断の旅にシフトします。
ぽつりぽつりと核心を言い当てるシャイアンの言葉は風刺と皮肉に満ちた箴言で実にいい感じ。
ダイナーの卓球台で若者をインチキ(球を持ったまま彫像のように動かず、相手が余所見した瞬間にサーブを決める)で負かし、「若い子は忍耐が足りないね」とうそぶいて去っていく辺り、年輪(笑)を感じます。
シャイアンの幼児性を理解して抱擁する妻ジェーンにフランシス・マクドーマント(相変わらず芸達者なおばさんだ)。
シャイアンが出会う女性は皆、ジェーンと同じ箱に入る雰囲気・容姿。シャイアンにとっての母性の象徴なのでしょうか。
全体的に大胆な省略法(意識的な説明放棄)を用いているので、「えっと結局あれはどういう事だったのかな?」な疑問多数。
ただ、そこいら辺突っ込むと「この作品を受け止められない、理解できない人が不憫でならない」とか「この映画の良さが分からない?」とか物凄い上から目線で憐れまれてしまうようなので、黙っている事にします。
『何かが変だ。“それ”とは言えないけど何かが変だ』
シャイアンが何度か口にする台詞ですが、何かがもうひとつ足りない気がします。“それ”とは言えない何かが…。
デヴィッド・バーンがAs Himselfで登場。凝ったライブを魅せてくれます(偏差値貧乏なメタラーにとっては正直退屈な音楽なのですが、そんな事言うとフルボッコにされそうなので黙っています)。
★ご参考