デストピア経典~曼荼羅畑でつかまえて(三代目)

B級カルトな特殊映画、ホラーにアニメに格闘技、酒にメタルにフィギュアに銃。日頃世間ではあまり顧みられる事のないあれやこれやを過剰なる偏愛を以てご紹介いたします。

現実(リアル)に抗え。 中二病でも恋がしたい

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“爆ぜろリアル、弾けろシナプス、Vanishment This World!”

中二病でも恋がしたい(2012年10月-12月放送/石原立也監督)

中学時代、“ダークフレイムマスター”になりきり、闇ノートに妄想を書き記し、周囲を潮干狩りが出来るくらい引かせていた孤独な少年・富樫勇太。

その恥ずかしい過去に悶絶し、中学時代の知り合いのいない高校へ進学したら、そこには現役中二病真っ只中の“邪王真眼”小鳥遊六花(たかなしりっか←読めねえよ!)が…。

邪王真眼の目的は、ダークフレイムマスターに導かれ、不可視境界線を探すこと。

高校の入学式前日。自宅マンション(2階)のベランダに出た勇太の前に上階からロープ伝いに降りてくる少女の下半身が(写真一番下)。

その不安定かつ危なっかしい動きに思わず手を差し出す勇太。勇太の手に足を乗せた六花が、一瞬“手乗り六花”になるのですが、この時の六花の脚の描写が秀逸。

この回の絵コンテ切っているのは総監督の石原立也。多分この人、重度の脚フェチ(もしくはタイツフェチ)です。

お話の前半はクラスメイトになった勇太と六花のドタバタを軸に、勇太と同じく過去を封印した女・丹生谷森夏(にぶたにしんか)、六花のサーヴァントを自称する中等部の凸守早苗(でこもりさなえ)、1年先輩の五月七日(つゆり←絶対読めない)くみんが絡む構成。

冒頭の台詞は六花や凸守が妄想世界に移行する呪文。

現実には傘を振り回したり、床を転がっていたり、ぽかすか殴っているだけですが、妄想世界では巨大な得物を駆使して戦う爆煙舞い光線踊る壮絶なバトルフィールドになっています。

物語が大きく転換するのは第7話。

ここで六花の中二病が、父の死を受け止めきれない“現実逃避”に端を発する事が明かされます。不可視境界線とは、父との邂逅が叶うあの世とこの世の分水嶺

でも、恐らくこれはミスディレクション

要因のひとつであることは間違いないでしょうが、中二病を発症させるには動機が不純です。

このことに囚われてしまった人たちが周囲に向かってリアルを振りかざしていきます。

『終わって何が悪い? 境界線も邪王真眼もないんだぞ。パパはいくら探そうが逢えない。あいつの言う事を肯定して何が解決する? あいつが求めているものは永久に手に入らないんだぞ』

六花の姉・十花の剣幕に「だけど…」と口ごもる勇太でしたが、六花と折り合いの悪い母親が六花のために作ったお弁当の重さに狼狽。

『お弁当がさ、まだほんのり温かくって、本当にズシっと重くて、何か詰まっているんだよ、一杯』
『愛情が?』
『…現実が』

やがてその矛先は凸守へも。

『お前の攻撃が一度だって通じた事があるのか? 本当に武器が出てきた事があるのか? ないんだろ? いくら想っても、いくら信じてもそんなものはないんだよ!』

『そんなの…分かってるデスよ。分かってるデスよお!』

現実に折り合いをつけて周囲が望む“普通の娘”になる決心をした六花。しかし、それは昔のように、ダークフレイムマスターに出会う前のように自分を殺して生きる事。

眼帯は心を守る鎧などではなく、心を解き放つ道具でした。

六花の想いを知った勇太のとった行動は…。

中二病の定義は難しいです。過剰なる自意識。現実とは異なるキャラクターへの同化。膨張する妄想。言い方は色々ですが、大なり小なりほとんどの人間が罹患しているのでは(そして寛解していないのでは)ないでしょうか。

70年代に思春期だった男でヌンチャクを手にとらなかった奴がいるでしょうか。

勇太同様、「タクシードライバー」を観て“びっくるくん(2010年7月4日のレビュー参照)”を作ろうと思わなかった奴がいるでしょうか。

今でもガバメント片手に仁義なき戦いを観ては「ほじゃけんのう」などと言ってみたり、ニューモデルアーミー片手にペイルライダー、ブラスター片手にブレードランナー、エンフィールド片手にラピュタを観ている私なんか日本全国どこに出しても恥ずかしい立派な中二病中(高)年です。

映画のキメ台詞を何気なく現実社会で使おうとして機会を伺っていたりしていませんか?

中二病“剝き出しの恥ずかしさの塊”としながら、その実、人生は好きなように生きていい、という「世界の中心でアイを叫んだけもの」と一脈通じる自分肯定の価値観を提示しているような気がします。

残りの人生、私もこの真言を胸に刻んで生きて行きましょう。

「爆ぜろリアル、弾けろシナプス、Vanishment This World!」