ラヴクラフトという山脈に挑んで途中下山してきた人って案外多いんじゃないでしようか。
人類以前の歴史。その禍々しくも宇宙規模な恐怖の断片を紡ぎ合わせた神話体系には魅了されるものの、何せ相手は100年前の英語の翻訳。
現在最も流通している創元推理文庫(「ラヴクラフト全集1」大西尹明訳)ですら初版1974年。44年の月日が経過しています。
しかもラヴクラフトの文章はひとつひとつが長く修飾語がてんこもり。そう簡単に登頂を許してはくれません。
で、昨年、星海社(講談社系)が“現代語訳”という大技(と言うか荒業)に挑戦。
「クトゥルーの呼び声」
(2017年11月15日第1版発行/H.P.ラヴクラフト著)
訳者は森瀬綾氏。PHP研究所の漫画版に解説を寄稿しているクトゥルー神話研究家。御大自らのご出馬です。
収録作は「ダゴン」を皮切りに「神殿」「マーティンズ・ビーチの恐怖」表題作「クトゥルーの呼び声」「墳丘」「インスマスを覆う影」そして「永劫より出でて」の7編。
さて、この現代語訳が「おお、すっげー分かりやすい!」となればお話として綺麗にまとまるのですがなかなかどうして。敵もさるもの。そう簡単に訳させはくれません。
例えば「クトゥルーの呼び声」終盤の一節。
プリズムのように歪み果てた幻想の中で、それは斜めの方向に異常きわまる動きをしたので、まるで物質と遠近のあらゆる法則が引っくり返ったようだった。(中略)そして膜質の翼を羽ばたかせて、凸状に萎縮する空へと逃げ出そうとした時には、太陽が目に見えて暗くなった。
この文章を読んで瞬間的にビジュアルが浮かんだ人はラヴクラフトと通信可能なアンテナを備えた人だと思います。
御大の現代語訳を以ってしてもこれですから、これはもう元々の英語が分かり難いとしか…。
森瀬氏の翻訳は分かりやすさよりも“正しさ”に重きを置いているように思えます。
「インスマスを覆う影」(創元推理文庫版は「インスマウスの影」)終盤。大西氏が、
さし当たり現在のところ、彼らはじっとおとなしくしていよう。が、やがていつの日にか、彼らの記憶のよみがえったあかつきには、大クトゥルフが熱望していた貢物を求めてふたたび立ち上がるであろう。次の機会には、インスマウスよりも大きな都市を狙うであろう。
と訳した所を森瀬氏は、
今のところは、彼らは休息についているのですが、記憶をとどめている限り、いつの日にか大いなるクトゥルーが渇望する貢物(こうもつ)を捧げるべく、再び地上にあがってくるのです。次の機会には、インスマスよりも巨大な都市になることでしょう。
と訳しているのですが、日本語としての分かりやすさは大西に軍配と思えます。
PHP研究所の漫画版「インスマウスの影」は、絵が下手、コマ割が稚拙、演出が少年誌と散々ではありますが、ストーリーを整理するという意味では格好のテキストです。
活字は嫌ぁ!という方は、スチュアート・ゴードン監督の「DAGON」(色々改竄されていますが大筋「インスマス」)か、小中千昭脚本・佐野史郎主演の「インスマウスを覆う影」をご覧ください。
同じネタをルートを変えて横断すると、新たに見えてくるものもあろうかと…。
★ご参考