『あんた、アホですか? なに話拗らせてるんですか』
『なんか……、ヒッキーってたまにすごく頭悪い』
『この人、アホだろ』
『比企谷……。君のやり方はまちがっている。君がすべきなのはそんなことじゃないはずだ』
『なんでこうなっているか知らないし、私が言うことでもないんだけどさ、もっと簡単な方法あったんじゃない?』
そんなことは分かっている。しかし、他にやり方を知らない。言葉にしなければ伝わらず、言葉にしたって伝わらない。だったら答えは簡単だ。俺の、俺たちのやり方は決まっている。
『比企谷……。その感情をなんていうか、知ってるか』
『知ってるよ。男の意地っていうんだ』
「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。/第13巻」
(2018年11月25日初版発行/渡航著)
12巻から待つこと13ヶ月。まあ、その前に2年と3ヶ月待った事を思えば“矢継ぎ早”と言っていい続刊発売。
一部の保護者から待ったがかかったプロムパーティ。学校側は自粛を要請。
修正を加えて交渉に臨む雪ノ下&一色。雪ノ下の企画を通すために対立という形を選んだ比企谷&由比ヶ浜。
自分たちの関係が“共依存”などではない事を証明するために。
雪ノ下陽乃に彼らの関係を共依存と呼ばせたいんだろうなあというのは、早い時期から読めていましたが、正直この大前提が私には疑問。
共依存の典型例はアル中の夫とそれを支える妻、あるいは先天性の病気を抱えた子供と母親などで、支えることが支配に繋がる関係です(支援の支は支配の支。最近の例だと「宇宙よりも遠い場所」第5話のキマリとめぐっちゃん)。
彼らの場合、そのどこにも支配の要素が感じられないですし、そもそも人と人が寄り添えば依存に近い関係が生じるのは自然なこと。
これを“甘え”と断罪するのはアリですが、共依存と弾劾するのは違和感があります。
要所要所で挿入されるinterlude(幕間)。12巻では由比ヶ浜だけだった比企谷以外のモノローグが今回は全員に波及。叫びとささやき、悔恨と慟哭。
そんなに剥きだしの皮膚を外気に晒すようなヒリついた青春送らんでもいいじゃないか、ラブコメだろ、ラブコメ。
11巻で未完のまま終わるのが一番美しかったような気もするのですが、作者が終わらせる(ケリをつける)と決断した以上、その意思を正義とするしかありません。
残すところあと1巻。彼らは“本物”を手にする事ができるのでしょうか。