『猪木の肉体がレクイエム、猪木の攻撃がゴスペルだ。そして戦い模様がバラードだ!』
『もういいじゃないか猪木と叫びたい』
1988年8月8日横浜文化体育館「藤波辰爾対アントニオ猪木」より古館伊知郎の実況。
いつかその日が来るのは分かっていましたが、いざ来てみると何とも悲しくやるせなく。
アントニオ猪木(本名・猪木寛至)永眠。2022年10月1日午前7時40分。心不全。79歳。
人間だからいつかは死ぬ。でも今じゃない、と思っていたのに。
数々の名勝負から本日は始まりの試合を。
「カール・ゴッチ対アントニオ猪木/新日本プロレス旗揚げ戦」(1972年3月6日大田区体育館)
前年1971年12月、日本プロレスに対してクーデターを画策したとして日本プロレス選手会を除名され、日本プロレスから永久追放されたアントニオ猪木。
残された選択肢は引退か海外。しかし、猪木が選んだのは新団体設立。
1972年1月13日、猪木は僅か6名で新日本プロレスリング株式会社を立ち上げました。
しかし、日本プロレスの妨害工作(猪木のリングにあがった奴は二度と日本プロレスの試合に呼ばない)にあって外人レスラー招聘ルートが遮断。
何とかカール・ゴッチを通じて数名のレスラーを確保しましたが、どれも無名。興業の目玉にはとても…。しかし…
『大丈夫だ。旗揚げ興行には一流の選手が出場するよ』
『本当ですか!? 誰ですかそれは!?』
『君まさかカール・ゴッチが一流じゃないとは言わないだろうな』
まあ都市伝説と言っていい会話ですが、似たようなやりとりはあったのではないでしょうか。
そして迎えた旗揚げ戦メインイベント。
今の眼から見たら地味に映るかもしれませんが、そこにはストロングスタイルの原点がありました。
手四つの体制からの力比べ。ブリッジで返されたら即座に同じ攻防を仕掛け。
そう来たか、ならこう返すぞ。ならこう攻めます。
弟子と師匠の無言のやりとり。
本家本元カール・ゴッチ式ベタ足ジャーマン・スープレックス・ホールド!
最後は、ゴッチが自ら授けた猪木の卍固めをリバース・スープレックスで返したゴッチが15分10秒、体固めで勝利。
敢えて猪木に花を持たせないゴッチ流(子供っぽいとか言うな)。
あれから50年。疾風怒濤の50年でありました。
向こうでは馬場さんと仲良く。ブロディにもよろしく(春一番にも一声かけて頂けると嬉しいです)。
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