特に原作の大ファンというわけではありません。
漫画の記憶は彼岸の彼方。モノクロ・アニメの点景がかろうじて脳内残留している程度です。
なので、どろろがオトナの女という“映画的嘘”はアリだと思いますし(原作にもどろろ=少女を匂わす描写はあったような)、無国籍な設定も世界観が構築されていれば十分許容範囲内の改変です。
という訳で純粋に1本の映画として観たのですが・・・こりゃ一体なんじゃらほい?
「どろろ」(2007年/塩田明彦監督)
全身48箇所を魔物に奪われた百鬼丸(妻夫木)が、魔物を1体倒す毎に生身のパーツを取り戻していく、というのがお話の骨子ですが・・・。
百鬼丸って途中まで、眼も耳も声帯もないのですよ。魔物を倒して初めて視覚・聴覚・声を得るわけですが・・・君最初から喋ってるじゃん! 相手の声も聞こえてるじゃん!
かろうじて眼に関してだけは「心の眼がある」という台詞がありますが、台詞だけ。
見えない、聞こえない、喋れない、という描写(演出)が一切無いので、声帯を得た百鬼丸が「どろろ!どろろ!どろろぉ!」とか叫んでも「は?何の冗談?」。
脚本はアナーキー&フリーキーな脚色させたら日本一なNAKA雅MURA。
「何でもアリ」にするために、時代も舞台も架空(原作は室町時代末期)にしてあるのですが、演出する側に“世界観”というものがビタ一文存在しないので、単なるトンデモ時代劇にしか見えません。
ラストは当然、醍醐の軍勢と一戦かまして宿命の一騎打ちという流れかと思いきや、撮影が面倒だったようで、ニュージーランドの草っ原で兄弟喧嘩→夫婦喧嘩→親子喧嘩という“構図って何?”な小芝居で終了。
中井貴一(醍醐景光役)は相変わらず大仰な舞台演技しかできないし、CGはゲーム並みだし(特に土屋アンナのパートは本人の演技も含め大笑い)・・。
柴崎コウは・・どうでもいいです(前半の「♪あなたのお名前何てぇの?」で興味なくしました)。
某映画雑誌が、原作(アニメ含む)と映画版を区別するために、原作を「どろろ」、映画を「とろろ」と表記していましたが、ホント「とろろ」でいいと思います。
最後に懺悔をひとつ。母親が炊き出しのかゆを子供に与えるためにみずからの両手を椀がわりにするという凄絶シーン、ず~っと「サスケ」の1駒だと思っておりましたが、「どろろ」が正解でした。いやお恥ずかしい(あ、勿論、この名シーンは「とろろ」にはありません)。
★ご参考