Jホラーの歴史とは、“この世ならざる者”を如何に映像に定着させるかの試行錯誤であったように思います。
そして、その事に最も真剣に取り組んできたのが、小中千昭、高橋洋、黒沢清の3人ではないでしょうか。
小中-高橋が交わした書簡のエッセンスを抽出し体系化した“小中理論”。
その小中理論を踏まえつつ、映像作家としての独自性を加え続けてきた黒沢清。
本作は「CURE」(1997)と「回路」(2000)を結ぶ結節点。
以前御紹介した「雨の午後の降霊祭」の和製リメイクです。
音効技師の佐藤克彦(役所広司)、霊能者の妻・純子(風吹ジュン)。
一見穏やか、でも絶対ドン詰まっている空気感が流石黒沢(CUREの役所・中川安奈の家庭と繋がっています)。
逃走中の事故で意識不明となってしまった少女誘拐犯。行方不明のままの少女。
藁にもすがる思いの警察は純子に霊視を依頼。想いをうまく伝えられなかった純子は少女のハンカチを預かって帰宅。そして戦慄。
「ひ!」
「どうした?」
「何で?…近いのよ。凄く」
反応はガレージから。そこには夫のジュラルミン・ケース。ロックを外すと中には誘拐された少女が。
「どういう事だ…」
この少女(まだ生きている)を利用しようという功名心が純子の中に芽生えた時から、ふたりの人生が軋みをあげて崩れていきます。
オリジナルはオカルト風味のサイコ・スリラーでしたが、こちらは本当に霊視が出来てしまうホラー映画になっているのがミソ。
虚言誘拐に至る経緯も、なるほど、その手があったか、な換骨奪胎脚本です。
ただ1点、許しがたい致命傷が。
少女は富士山麓で誘拐犯の手を逃れ、偶然、風の生音を収録に来ていた役所の荷物であるジュラルミン・ケースの中に身を隠したのですが、ここに矛盾がてんこもり。
まず少女が身を隠せたという事は、その時このケースは空だったって事ですが、役所は蓋も開けずにロックを掛けます。
つまり、役所は空のケースを車に詰め、中から何を出すわけでもなくそのケースを地べたに置き、何をしまうでもなくロックして持ち帰ったという事になりますが、何のために?
もう最初から少女が身を隠すという状況を作るためのこじつけとしか思えません。
更に、役所は本来空であったが、今は少女が入っているケースを自分のバンに積み込んでいるわけですが、気づくだろ普通。
空のケースが少女の体重分重くなってるんだぞ。しかも少女は意識があるから動くし叫ぶだろ。気がつかなかったなんて有り得ません(自宅ガレージでも床に降ろしているのに)。
もしこれが、バンの中に積みっぱになっていたケースに少女がこっそり身を潜め、それと知らずに鍵だけ掛け、家に戻ってもそのまま放置(つまり鍵を掛ける以外はケースに触っていない)であったならすんなり受け入れられましたが、これでは「んなアホな」感だけが強くなって全く話に入り込めませんでした。
あとラスト。いきなり普通のサスペンス的オチで幕を引いてしまうのも不満ではありますが、どう見ても最後に純子を追い込んだのは役所です。
お前が余計な事言わなければもうちょっと違った結末になったんじゃないのか。
霊の出し方が結構良かったので、人間側の細かい描写に配慮がなかったのが残念。
神主役の哀川翔がのほほんとしていて、暗い話を和らげる緩衝材になっていました。
※参考:「迷走するパラノイア。 雨の午後の降霊祭」→2012年9月28日