…一体どこから手をつければいいのか。一旦原作を忘れて“これは「進撃の巨人」にインスパイアされた別の話なんだ”と割り切ろうとしたのですが…無理でした。
原作改変の理由が製作側の都合(ロケ地が日本だから舞台も日本、役者が日本人だから日本人っぽくない名前のキャラは全て排除、など)だろうが、脚本改竄の理由が監督のひとりよがりな思い込みと気まぐれだろうが、面白けりゃいいんですよ、面白けりゃ。
面白さこそが、いや面白さだけが免罪符。だがしかし…。
せめて1本筋が通っていれば、後の事は適当に脳内変換してやりすごせたのに…。
これは一種の自己破産映画なのではあるまいか。
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」
(2015年/樋口真嗣監督)
アルミン(←どう聞いても日本人っぽい名前じゃないだろ)が近所の子供に作ってあげたおもちゃ。
『これは電池で動くんだよ』
待て。壁の中に引きこもって100年だぞ。電池なんか存在するのか?
壁に穿たれた穴からわらわらと入ってくる巨人たち…の中に明らかに女(と言うか気の触れたおばさん)が混じっている。
待て待て。確認された巨人は全て男だったのではないのか。だから後に“女型の巨人”という特別な呼称が生まれたはずなのに。これじゃアニの立場が…って別にこっちにはアニ出てこないからいいのか。
壁外再建団(調査兵団ではない)が壁の外に出る時の乗り物が装甲車風トラック。
待て待て待て。壁の中に引き(以下略)だぞ。車の整備技術は生きているのか。ガソリンはどこから調達してんだ。壁の中に油田でもあるのか。ここは馬だろ馬。
どうせ、馬が調達できない、役者が馬に乗れない、金が無い、演出できない、走らせる場所がないといった理由なんだろうが、壁の中の暮らしとか文明とかちゃんとイメージできるようにしてくれよ。
因みにミカサが幼少期に両親殺されて自分も売られそうになったのをエレンが助けてそれ以来ぞっこんというエピは無し。
故にミカサのエレンに対するヤンデレ描写も一切無し(それこそがミカサの魅力なのに)。それどころか、エレンと生き別れた挙句、リヴァイの代用品であるシキシマという男の女になっている。
このシキシマという男、芝居がかった喋りでニーチェとか引用し、常にリンゴをかじっている中二病。こんなのにミカサを寝取られるとは…。哀れエレン。
ついでにエレンの母がエレンの眼前で巨人に喰われるシーンも無し。エレンが巨人を憎むのはミカサが巨人に殺されたと思い込んでいたから。故にミカサ生存を確認した後の『駆逐してやる』は説得力ゼロ。
脚本ではミカサは脚を怪我して動けないという設定だったが樋口が無視。
「兵団とか兵士という言葉を使いたくない」
「訓練の様子も描きたくない」(樋口慎嗣)
→調査兵団は巨人に喰われて全滅したという設定。
「“母親を殺される”というのは物語的には説得力があるが、“観客全員が共有している感情じゃないから”(撮らない)」(プロデューサーの誰か)
すみません、意味が分かりません。
ミカサもソウダ(原作のハンネスに当たる人)も何故巨人化したエレンを見て、それがエレンだと思うんだ? どこかに面影あったか?
ソウダは咄嗟に「うなじを切開しろ。中まで傷つけんなよ! 早くしないと巨人に取り込まれる。細胞が同化しちまうんだよ」と叫びますが、何故お前は巨人の秘密を知っている?
巨人のうなじから出てきたエレンを見て「そうか、だから巨人はうなじが弱点なのか」とつぶやくハンジさん(石原さとみ)。映画のハンジさんは洞察力溢るる知将ではありません。ただのお馬鹿さんです。
斧振り回して、巨人のアキレス腱切って倒したり、10m級の巨人を1本背負いで投げたりする基本設定も物理法則も無視した奴がいたりしてもう滅茶苦茶。
唯一良かったのが巨人の描写。明らかに精神を病んだ顔をしてへらへら笑っている奴らが人間を噛みちぎり引きちぎり喰いちぎり…。
ドラマパート全部無視して、巨人パートだけを繋げて“タチの悪いホラー”だと思って観れば傑作と言えるかもしれません。